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 『成績を上げる」 〜今までに対応してきた生徒より〜 





また、悲しい事件が起こってしまった。
今度は、中1の子が家に放火したという。


本来、「傷を癒すところ」、そして、「愛情を育みあう最初の場所」としての「家」の機能は、
その子にとって充分に果たしていなかったのだろうか。


それでなくても、今の子どもは、充分に追い立てられている。

学校から。

友だちから。

塾から。

親から。

兄弟から。

ネットの友だちから。

メル友から。


いつも、なにかしらの「ノイズ」が、彼らの心を蝕んでいる気がする。



そして、それを
「そのくらい当たり前だよ。」
と突っぱねる親もいらっしゃれば、
すり傷くらいなのに、包帯を巻いてギプスをしようとする親もいらっしゃる。




色々なものが、行き詰っている。
それは、日々子どもと接していて、痛いほどわかる。

一番生命力が旺盛で、「元気」なはずの「子ども達」が疲れているのだから。



「元気」という言葉の定義に、
こんな素敵な言葉が「ほぼ日刊イトイ新聞」の中、
ケビン山崎さんによって仰られていたのを思い出した。


「例えば、お父さんと子どもが公園を歩いているとするでしょう。

2人で公園の水飲み場に向かっているとしたら、
お父さんの方はなるべく直線で、最短距離で歩いていきますよね。(笑)

でも、子どもの方は、先に水飲み場に行って、
それでまた、お父さんのところへ戻って、
また、一緒に水飲み場に向かって行く。

そういう動き方をするでしょう。

『元気』とは、そういう子どもの動きです。」



僕自身も自分の子どもを持って、それは実感する。





公園で芝生の上を一緒に走る。

3歳の息子はムキになって、一生懸命走る。
あるところでボクは立ち止まって、その様子を見ている。
ふと、ボクが横に居ないことに気が付いて、息子が振り返る。
少し不安そうな顔だ。

ボクはそっと笑顔で右手を振る。
その様子を見ると安心して、息子はまた走り始める。

「そろそろ帰っておいで!」
の声を期待しながら。


子どもが、本来持っているはずの「子どもらしさ」を表現するには、
大人たちの持つ「安心感」が必要なのだと思う。


大人に「安心感」を感じられない子どもは、
少しでも自分の居場所を認めてもらうために、「自分」を殺して「良い子」を演じているのだろう。


「分かってもらいたい」


それが全ての子どもの心の底に流れている気持ち。
いや、子どもだけではないのかもしれない。





ボクは、子どもの成績を上げるには、
「安心できる人間関係を育むこと」。

それしかないと思っている。


そのために、色んな先生がいて良い。

人間は、思ったよりもずっと「多面体」な生き物だ。

一人の「理想の先生」が、万人に受けるはずがない。
また、その必要もないと思う。
一人のスーパーマンみたいな、「良い先生」を見つけることは、
その人に依存したいだけの、利己的な判断にしかならないからだ。


だから、「その子」にとっての「良い先生」が1人いれば良いと思う。
「分かってくれる先生」が1人居れば良い。



その子にとって、この先生に認めてもらいたいな、と思える先生。
尊敬できる先生。
面白い先生。
一緒に居ると、ナンダカ元気になれる先生。

なんでも良いと思う。


その先生と生徒の心に「つながり」が出来た時、成績は上がり始めるのだ。


なぜなら、人は、自分のためには生きられないけれど、
人のためには生きられるからだ。


自分ひとりなら、カップ麺でも良い、と思える人でも、
心から好きな人には、ちょっと無理してでも、良いレストランで食事をしたいと思うこと。


出不精で、トイレに行くのもメンドクサイ、なんて言っていた人でも、
恋人に会うために、電車で1時間以上もかけて会いに行ったりすること。


寝ないとモタナイ、なんて言っていた人が、
自分の子どもが病気になったら、夜中でも子どもを抱いて病院に駆け込むこと。


あんなに親子の仲が悪いと思っていたのに、
「先日、両親に温泉の1泊旅行をプレゼントしたんよ!」
と嬉しそうに話してくれた人のこと。


一人なら死んでもいいと思っていた夜もあったのに、
子どもが出来た日に、地球上の全ての生き物が心から愛おしく思えたこと。



勉強も、もちろん最終的には、「自分のため」に勉強しているのかも知れない。
けれども、それ以上に、「誰かのため」に勉強している人は強いと思う。





中島らもさんの本の中にこんな一節がある。


>もし、誰をも愛していなければ、結局僕は『いない』のだ。


この思いは、昔からボクの心の隅っこにいつもあった。
だから、その思いをきちんと言葉にしてくれたこの本に出会った時、思わず涙が出ていた。


ボクがボクとして存在するために、誰かを愛すること。


「愛」とは、必ず、「与える側」と「与えられる側」の両面が必要だ。



与えたくても、受け容れてくれるところがなければ、
思いの重みに耐え切れずに、孤独を叫ぶようになるだろう。


与えられたくても、与えてくれる人がいなければ、
これもまた、孤独になるだろう。


そのつながりがあって、はじめてそこに「調和」が存在する。
だから、与える側も、与えられる側も、立場としては優越などないのだ。


どちらも、
「相手があって、はじめて成立する関係」
なのだから、そこにある思いは、

「そこにいてくれて、ありがとう!」
という感謝しかない。





つらい思いも、悲しい思いも、怒りも、やるせなさも、
それは全て、「その人」が、そこにいてこそ思える「感動」だ。


であれば、そこにも感謝ができれば、「愛」をいつでも体現化できているといえるのだろうと思う。


愛をいつでも体現化できること。
愛とは調和。
調和とは神、だ。


つまり、愛をいつでも体現化できる存在に近付くことが、
「神」に近づいていくという、
「心の進化」のゴールなのだと思う。

「神」と言っても、所謂「唯一絶対神」とかいうものではなく、自然界の法則のこと。

全ての命の源泉だ。
そして、「全て」があるところが「神」なのだと思う。


「勉強をすること」が、小手先のテクニックになってはいけない。
勉強は、無機質なトレーニングではない。


今居る誰かや、まだ見ぬ誰か、
そして、未来の自分、

そんな沢山の繋がり、
或いは、1つでも強い繋がり、


その「繋がり」という「愛」を持っている子は、成績が上がるとボクは思っている。


そして、実際にそうだった。



子ども達の解いたノート


   

   

   


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